或る雨の日に。

「あ、傘」

 跡部は、傘立てに手をのばそうとし、思わず間抜けな声を出した。忘れたわけではない。あるはずの物がなかったのだ。
 最近どうも雨が多い。女心と秋の空とはよく言ったもので、朝方降っていても昼過ぎれば暑いくらいの日差しであったり、逆に天気予報は曇りであったのに急な夕立に見舞われたりといったものだから、とにかく傘が手放せない。
 今日も朝から小雨が降っていたので、跡部はあまり気に入りでないバーバリーの雨傘を持っていた。先週までは、もう少しマシなグッチの雨傘だったのだが、それも駅前の書店で紛失した。
 ジローが漫画雑誌を読みたいと言うから、このコンビニエンスストアに入ったのが二十分程前。店の入り口の傘立てには、女物らしき派手な花柄の傘と透明なビニール傘の二本が刺さっていたのを記憶している。
 二十分間に店を出て行ったのは、買い物を終えた帰宅途中のOLと雑誌を立ち読みしていた女子高生だけ。男物の傘を間違えて持って帰ることはあり得ないだろうから、考えたくはないが盗難にあったらしい。

「またパクられたの?」

 丁度、駄菓子を買ったジローが包みを破りながら、店から出てきた。雑誌を立ち読みしても、その分買い物をしたら結局同じじゃないかと跡部はいつも思うのだが、彼に言わせれば全然違うらしい。

「だから、傘なんて安いのでいいって言ってんのにさ」

 どうせなくなるんだから。
 ジローは呆れ顔で知ったようなことを言った。
 ちなみにジローは、朝から雨だったというのに傘を持って来なかった。というか、傘が家になかったらしい。
 信じがたいことだが、電車で寝れば確実に置き忘れ、コンビニで買っては別のコンビニに置き忘れ、予備校でいつの間にか拾って来た他人の傘も学校の傘立てに入れてしまえば存在を忘れるジローには、そもそも自分の傘を持ち歩く習慣というものがないのだ。物に執着心が無さすぎるというか、ズボラと言えばいいのか。
 跡部が何本か貸した折り畳み傘も戻ってくる気配はないし、身嗜みチェックの時に貸してやったネクタイも一本無くされたので、跡部はジローに傘は貸さないことにしている。

「きっと、跡部のこと好きな女の子だよ。モテる男は大変だよねぇ」

 明らかに他人事の顔でポッキーを齧るジロー。

「いいじゃん、この傘もらっとこうよ」

 ジローが傘立てに一本だけ残っているビニール傘に手をのばした。

「バカ、やめろよ」

 跡部に手を払われたジローが、訝しげに大きな瞳を瞬かせた。ふいに見つめられ、跡部は言葉に詰まる。

「それは、」

 盗人の傘だろう。

「……ひとの傘だろう」

 ジローは「うーん」と唸って頭をポリポリと掻いた。
この幼馴染みには、跡部の必要以上な潔癖さも無用な正義感も知られてしまっている。

「じゃあさ、キョーソーしよーぜ」

 ジローは駅の方向を見遣って、満面の笑みを浮かべた。最短距離でも二百メートルはある。どう足掻いても濡れてしまうだろう。
 ジローは傘を待つ習慣がないと言ったが、それは半分だけ正解で、もう半分の理由は雨に濡れるのが好きだからだ。ジローの前世は犬だとしか思えない。

「傘買ってくる」

 犬の散歩には付き合えない。跡部が「一人でやれ」と、踵を返すとジローが反論した。

「ええ〜もったいない! だったら俺にジャンプ買ってよ」
「今読んでただろ!」

 さすがの跡部も、これには我慢出来なかった。ジローも、しょんぼりした様子で「ごめん」と小声で謝った。それから「ちょっと待ってて」と言って、また店内に入って行った。

 ほんの二、三分経った頃、ジローは青いビニール傘を手に戻ってきた。

「買ったのか?」

 跡部が尋ねると、ジローは「違うよ」と首を振った。

「店の人に言ったらくれた。忘れ物じゃないかな」

 ジローは傘の出自には全く興味ない様子で、ブルーのビニール傘を広げた。まるで新品のように曇りのないそれは、伸ばすとパリパリと独特の音を立てた。
 二人で入るには小さい傘だ。雨を避けようと肩寄せ合って歩く。
 何が楽しいのか、ジローは笑いながら言った。

「明日雨降ったら、これ使いなよ」
「いや、家には他の傘あるから」

 使い捨ての傘なんてみっともなくて持ち歩けない。跡部の感覚ではそうだった。

「なんで? キレイじゃん、青くて」

 ジローは物珍しそうに、ビニールの青を透かして曇天を見上げた。
 青いビニール傘なんてありふれてる。跡部はそう思ったが、反論しても聞きやしないので一緒に青いビニールの空を見上げた。バタバタと騒々しい音を立てて大きな雨粒が震え、すぅと光って滑り落ちた。

「なんかさ、雨なのに晴れてるみたく見えね?」
「俺には、さっぱりだ」

 正直にそう思ったのだが、ジローは賛同が得られないのが不満のようだった。

「だから跡部はダメなんだよ」

 ひどい言われようだ。でも実際そうなのかもしれない。雨が降っているとか、傘をなくしたとか、そんなことで気が滅入っている跡部よりも、傘一つで喜んでいる彼の方が、よっぽど幸せそうだ。

「まぁ……水中にいるみたいな気分ではあるかな」

 なんとなくジローに合わせてみたが「無理しなくていいし」とため息を吐かれた。
 何もかも見抜かれている。でも、それは嫌な気分ではなかった。

「水族館、行きてぇな」

 ジローはぼんやりと呟き、それから思いついたように「そうだ! 水族館行こうよ」と目を輝かせた。

「いや、意味分かんねぇし」

 跡部が苦笑するも、ジローは「行こう行こう」と一人ではしゃいでいる。

「今週の日曜日がいいな」

 臨海公園行こうよ。俺ペンギン見たい。あとモスバーガー食べたい。行くだろ? ジローは上機嫌でペラペラとまくし立て、跡部に同意を求める。跡部が一緒に行くのは決定事項であるらしい。

「お前が羨ましいよ」
「そう?」

 ジローは涼しい顔をして微笑んだ。
 今度の日曜日は、俺の誕生日なんだけど。跡部は足下の大きな水たまりを避けながら、心の中でもう一度苦笑した。ジローは多分、忘れて言ってるんだろう。
 いつでも幸せそうなジローと一緒なら、幸せな一日になるのかもしれないな。そう、跡部は思った。

「寝坊したら起こしに行くからな」
「ひでぇよ、跡部〜」

 途端情けない顔になる彼を見て、跡部は笑った。
 心は晴れやかな、ある雨の日だった。




(了)






(2009.10.4)オンリーイベント用ペーパー書き下ろし。
「誕生日なのに傘をパクられるだけのお話を書かれる攻めキャラって可哀想!」という思いつきで書いた小話です。
珍しく跡ジロが幼なじみですが、跡部に「だからダメなんだよ」って言っちゃうジローとか、ジローに素直に「羨ましい」って言えちゃう跡部とか、普段と異なる関係性で今読んでもかなり好きなお話だったりします。
そして自分が幼なじみ跡ジロを書かない理由も明確に書けていて、つまり、二人の間にこれだけの健康的な信頼関係や精神的な絆がお互いにあったなら歪な恋愛感情を抱くことはなかったんだな、的なBLカップリングとしての跡ジロ否定でもある気がします。アンチ・ロマネスクが「アンチ」というネガティヴな冠を被っているのは、こういうものを書きたかったからじゃないでしょうか……と今なら思いますね。