Romeo In Phantasm(preview)

 ロミオ・レオーニの少年時代は、決して恵まれたものではなかった。

 彼の親は良く言えば放任主義、悪く言えばクズだった。子どもであっても自分の食い扶持は自分で稼ぐべきという母親の言うままに、少女に見える格好をして湿気ったマッチを売るのが物心ついてからの彼の日常生活だった。十歳になったある日、路上に居るのを憲兵に捕まったが、一向に親が引き取りに来なかったので、フェンリル管理下の養護施設を点々とすることになった。もっとも、この時代、なにひとつ不自由なく家族揃って暮らしている子どもの方が珍しい。よほど裕福か、生まれた時からフェンリルの関係者で防壁の中の安全な生活しか知らないか。マグノリア=コンパスに引き取られるまで、ロミオは幾つかの養護施設で暮らしたが、どこも貧しい家庭から捨てられた子どもや戦災孤児で溢れていた。

「わたし、神機使いになりたいの」

 生まれ育った小さな村をアラガミに追われ親を亡くしたという、一つ下の少女はそう、夢を語った。神機使いになれば、今よりも自由な暮らしが出来るしアラガミに怯えずに外の世界に出られるから。彼女の夢は、ロミオには良く分からなかった。その頃のロミオには、マッチを売らなくても毎日食事にありつけ、自分ひとりのベッドでゆっくり眠れる施設の生活以上の豊かさが想像出来なかったのだ。だが、皮肉なことに、将来的に神機使いやフェンリルの士官候補生を目指す者として見出されたのはロミオだった。
 児童養護施設マグノリア=コンパス——同じような養護施設で暮らす児童たちの間で、ひそやかに噂されるその施設は、他のフェンリル管理下の養護施設とは異なり児童に徹底的な専門教育を施し、必ず一人立ちさせるという話だった。具体的な進路は非公開とされているが、多くが神機使いやフェンリル関係の職に就くと噂されていた。
 裕福な家柄に生まれ自らもフェンリルの研究者であるという設立者のラケル・クラウディウスは、時間を作っては恵まれない子どもたちの居る施設や保護している支部を巡り、彼女の理念に適う子どもを探しているのだという。

「あなた……ロミオっていうのね。素敵な名前だわ……私と一緒に行きましょう」

 電動式の車椅子に乗った彼女は、ロミオの名を訊くと黒いヴェールの下でゆったりと微笑み、そして彼を選んだのだった。差し伸べられた細い手からは、ふわり、と不吉な花の匂いがした。
 思えばそれがきっと、悲劇の始まりだった。幼いロミオに逃れるすべなど在りはしなかったけれど。

* * *

 マグノリア=コンパスは美しく静謐で学校のように規則正しい場所だった。学校に行ったこともなく、ろくに読み書きも出来ないロミオには窮屈な場所で、時々抜け出してはこっぴどく叱られた。
 施設の敷地は広大であったが、児童一人ひとりが生活する場所は決まっていて、勝手に入っていい場所というものはほとんどなかった。八人で一つの寝室、学び場、食事をする時は大きな食堂で。外へ出ようとする児童を阻むようにそびえ立つ高い壁は、ブロックのように敷地を区切り、容易に居住区間から移動出来ないようになっていた。
 一番叱られたのは、壁を登ってその上で寝ていたときだった。もっともロミオは、逃げ出そうとしたのではなくて、ただ星がとても綺麗な夜だったから間近で見たかっただけなのだけど。うとうとと寝入ってしまい、気付いたらロミオが居なくなったと大騒ぎになっていた。その時は、たしか一週間夕食抜きで皿洗いの罰だっただろうか。まだ幼かったロミオには大層堪えたので、それからというもの二度と壁に登ろうとは思わなくなった。
 滅多に入ることが出来ないマグノリア=コンパスの中心には、高い壁に囲われた庭園とこの施設を創設したラケル・クラウディウスが暮らしている屋敷が位置していた。
 ラケル先生。児童たちは親しみを込めてそう呼んだが、ロミオからすれば最初に入所する時に言葉を交わした以外は、年に数回くらいしか見ることはない存在だった。
 施設に来たばかりの頃、授業で教育係に連れられてその秘められた庭園を見たことがある。ちょうどマグノリアの花がつぼみを付けていた時期だった。

「——マグノリア、極東地方では木蓮とも呼ぶそうですが、この花のつぼみは太陽の光が当たった面がより大きく成長するため、つぼみが大きく成長するにつれ光が当たっていない北側へと曲がっていくのです。つぼみの先がみな同じ方向へ向いているでしょう。こちらの方角が北なのです。このような特徴をもつ花をコンパス・フラワーと——」

 教育係は一つの枝を指し示し、児童たちはその話を熱心に聞いている。庭園にはロミオが名前も知らない様々な種類の花が咲いていて、まるで天国のようだった。
 ロミオの視線は離れたところの樹の下で本を読む同い年くらいの少年と、その少し年の離れた姉のような女性に釘づけられた。まるで天使のように、ただ美しく、なにも知らないかのような面持ちの少年と、それを見守り慈しむ聖母のような女性。
 色とりどりの花々に囲まれて、それはただ幻想的な風景だった。うつくしい、お揃いの金色の髪をした彼らは、楽しげに本の中のおとぎ話の世界に夢中の様子で。それに引き寄せられるように、二歩、三歩と歩み寄ろうとしたロミオを、

「ロミオくん」

 教育係——と言っても彼女自身も十代の若い娘だったが——は、静かに呼び止めた。

「あれは、この施設を管理なさっているラケル・クラウディウス先生よ。ここは先生のお庭なの。邪魔してはいけないわ」

 彼女自身もこの施設の卒業生だという教育係は、児童を叱ってばかりだった。それが仕事なのだから仕方ないのだけど。

「ねぇ、あの子は?」
「ロミオくんが一緒に遊べる子じゃないのよ」

 その彼女がその時ばかりは、まるで哀れむように。

「私たちとは、違う世界のお方なのですから」

 そう、言ったのだった。


(続)