インソムニア(preview)
いつも通り、音もなく声もなく気配もなく最初からそこに居たかのように、彼は神機保管庫に——リンドウの神機の前に現れた。何をするでもなく、ぼんやりと神機を眺めている。
彼を見かけたのは三日ぶりだったが、いつもどこで何をしているのかは分からない。気まぐれに現れ、いつの間にか消える。
カズヤと視線がかち合うと、レンは軽く手を振り楽しいことでもあったように微笑んだ。音ひとつ立てず二人の居るところへ向かって歩いてくる。
カズヤは調整が済んだ神機をホルダに戻しながら、レンを近くに手招いた。
「アンタぁ、やっぱ天才だな。アンタほど神機が分かる奴は、他の支部にだって居ねぇだろうよ」
言いながらレンに目配せすると、レンは琥珀色の瞳を瞬かせて肯定するように笑顔を浮かべた。
「わ、私は、まだ勉強中だし……ロシア支部なんかにはもっとすごい人居るんだよ?」
リッカは——レンに気付いていないのか急に褒められたことに面食らっているのか、視線を足下に落としたままグローブを嵌めた両手を組み直した。
「それよりさ……キミって、あんまりガードしないでしょ。もっと、神機傷だらけにしていいから、身を守ることもして欲しいかな……って」
機械油と塗料に汚れた頬を僅かに赤らめたリッカは、いつも通りの台詞をいつもと違う口調で言い、カズヤの方の顔をそっと見上げた。
可愛い。反射的にそう思って、少し後悔する。
レンは無言のまま、ちょんとカズヤの袖を引いた。
手には、どこから持って来たのか缶ジュースを持っている。
「……?」
怪訝な顔をしていると、レンはカズヤの手にそれを押し付けて来た。
リッカにやれということだろうか。
「リッカ。こいつぁ、お礼だ」
「ひやぁ! ……は、初恋ジュース?」
冷たい缶を頬に押し付けられたリッカは、飛び上がらんばかりに驚いた。当たり前か。
「どっから出したの? もう……」
「ウマいらしいぜぇ? まぁ、飲んでくれよ」
リッカは片手のグローブを脱いで缶を受け取った。
「どうせなら、冷やしカレードリンクの方が嬉しかったなぁ」
そして、ぼやきながらリッカは缶を開けて一口飲み——威勢よくむせた。
「……ッ、げほ……ナニコレぇ? だれが美味しいって言ったの?」
「うわはははははははははは!」
あまりにも期待通りの反応にカズヤは腹を抱えて笑った。レンは自分の差し入れがリッカに不評だったのが理解出来ないと言うように、不満そうに首を傾げた。涙目のリッカには睨まれた。
「またな」
今度はカレードリンクにしてね、とリクエストするリッカに手を振り、カズヤは神機保管庫を後にした。
レンは無言で着いて来る。足音ひとつ聴こえない。
リッカにレンは見えない。
いや、リッカだけでなくアナグラの住人たちは誰一人としてレンを見ることが出来ないのだ。
彼が語る言葉に誰も答えないのも誰も彼のことを知らないのも、そうでなければ説明が付かない。
カズヤがそれに気付いたのはごく最近だった。
(続く)